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行程 --km 私の万歩計 --,---歩 沼津一里塚 〜 沼津城跡 〜 乗運寺 〜 千本松(風光明媚な松原から見る富士山は圧巻) 〜 首塚 〜 六代松の碑(平家物語にちなむ) 〜 傍示杭(沼津藩西限) 〜 松長一里塚(江戸から31番目) 〜 松蔭寺(すり鉢松) 〜 浅間神社 |
この旅ではデジタル式の一眼レフとコンパクトのカメラを持参しています。この日は午前中から雨がポツリポツリとあり午後の途中からは傘が必要な降りかたになりました。やむ得ずコンパクトカメラを主にして撮影しました。撮影の度に服のポケットか包んでいるタオルから出していました。この動作の中でいずれかのボタンに触れて意に反する撮影設定になっていました。普段は時々液晶画面で正確に確認しているのですが、この日は確認動作時に濡れるので途中から止めました。 撮影設定が誤っているのを気づかず撮影したため、画像が不鮮明になっていました。 今回は一眼レフで予備用に撮影した画像の掲載となりました。このため若山牧水の菩提寺、千本松原、駿河湾、一里塚など大事な場所が欠けてしまいました。自分の不注意で、ただただ悔やまれる思いです。機会があればぜひ訪れたいと願っています。 このような事情で、掲載画像が欠けてしまいました。また、写真の説明も一部未完ですが、追って添える予定です。 |
「川郭通り」とは、川郭町を通っていた旧東海道を言い表していました。 |
■沼津城本丸跡 (この項、説明板より引用) この中央公園は、三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置しています。三枚橋城は、天承七年(1575)、武田信玄の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといい、関ヶ原合戦後の慶長六年(1601)には大久保冶右衛門忠佐が城主になりました。しかし、同十八年(1613)の忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり、翌十九年、三枚橋城は廃城となりました。 以後160余年の間当地には城はありませんでしたが、安永6年(1777)、後に老中となる水野忠友が沼津に城地を与えられ沼津城を築城しました。この沼津城は三枚橋城の北半分を利用して造られましたが、規模は三枚橋城と比べ小さなものでした。 慶応四年(1868)水野氏の菊間(現 千葉県市原市)転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われましたが、明治四年(1871)の兵学校廃止後払い下げられ、姿を消しました。 |
駿河湾に面した千本松原の中にあるのが千本松公園です。この松並木の中を通っている道が千本松道りです。目にしましたが、往時の東海道はこんな感じの道ではなかったのかと想像しました。 |
この増誉上人像は、昭和四十四年(1969)「増誉上人顕彰会」が沼津市民から浄財を募り建立したもので、千本浜公園のシンボルとして親しまれ敬われてきましたが、平成十六年(2004)十二月の強風で折れた松の大木が倒れかかり、像は大破してしまいました。 増誉上人像の復元を願う多くの人々から浄財が寄せられ、ここに修復が成りました。千本松原は天下の名称として広く知られていますが、増誉上人に感謝を心を表すとともに、この松原をいつまでも大切に愛護したいと思います。 (この項、説明板より引用) |
寂しさのはてなむ國ぞ けふも旅ゆく 牧水 この歌碑は、全国で最初の牧水歌碑として昭和四年七月に建てられました。 |
![]() | 千個の海のかけらが 千本の松の間に 挟まっていた 少年の日 私は 毎日 それを一つずつ 食べて育った 井上 靖 |
三枚橋城を築いた甲斐・武田勝頼と小田原・北条氏がここで戦ったとき、勝頼は伏兵の潜伏を避けるために松を残らず切り倒してしまいました。 その時の千本浜の合戦の死者の骨で、拾い集め埋葬したものだけで105体もありました。合戦の死者はそれ以上の数であったと思われます。 ■首塚 (この項、説明板より引用) 戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、とくに天正八年(1580)の千本浜の合戦は激戦であった。明治三十三年、暴風雨で倒れた松の大木の下からたくさんの頭蓋骨が法顕され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を建て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。 人骨はこの合戦の戦死者のものと言い伝えられてきたが、昭和二十九年、人骨研究の権威鈴木尚東大教授の調査により当時のものと確認された。 おびただしい頭蓋骨の数や刃傷の深さから、戦いの激しさがうかがわれ、とくに十代後半の若者の骨の多いことが注目されている。 碑文は旧沼津藩士岩城魁によるが、地元市道町の人びとが今も霊を厚く弔い、香花の絶えることない。 |
■若山牧水旧居跡 (この項、説明板より引用) 歌人若山牧水が、千本松原の景観に強く心ひかれ、沼津に移住してきたのは、大正九年(1920)満三十四歳の夏であった。 大正十四年、ここに五百坪の土地を求めて居宅を新築し、沼津永住の念願を果たした。建物は、木造二階建て七十九坪で全十一室あり牧水が夢に描いていたとおりのものだった。牧水は、千本松原を愛したように、この居宅をひじょうに愛していたが、この家には、わがか三年暮らしただけで、昭和三年(1928)の秋、四十三年の短い生涯をこの地で閉じている。 牧水の建てた家は、惜しくも昭和二十年の戦災で焼失したが、沼津市若山牧水記念館に五十分の一復元模型(ミニチュア)としてその全容が展示されている。 |
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江戸幕府の命を受けて、道中奉行井上美濃守藤原利泰らが文化三年(1806年)に完成した「東海道分間延絵図」にも、千本松原の中にある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。 民間では、学識の深い俳人秋里里■島が寛政九年(1797年)に板行し好評を博した「東海道名所絵図」には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。 平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保一二年(1842年)碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。 (この項、説明板より引用) |
翌安永七年、韮山代官江川太郎左衛門から条地を引きつぎ、沼津藩創立と共にこの傍示杭を設置しました。傍示とは江戸時代、天領や私領のいりくんでいるところでは、人々に領域の所在をはっきり知らせる必要があり、そのため街道の傍らに立てられたものです。この傍示杭は当時沼津藩の西境に立てられたものですが、明治末期頃に折られて、下半分が失われています。 下石田には「従是西沼津領」と刻まれた二、一二メートルの傍示杭が完全な形で現存していますので、「従是東沼津領」と判断できます。石質、字体、寸法等すべて同一ですので、同時に立てられたものであると考えられます。 (この項、説明板より引用) |
山門の東側には、樹齢400年を越えているといわれる「すり鉢松」がそびえて立っています。 「すり鉢松」のいわれは、備前岡山藩主池田継政は、参勤交代の途中に立ち寄った宿で、食事の支度をしていた修行僧がすり鉢を割ったことを知りました。池田継政は、後日陶工にすり鉢を作らせ贈ったといわれます。白隠弾師はその一つを松の枝の折れ口にかぶせたといわれ、そのまま大きくなってしまい、現在の形になったといわれます。 |
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