第6回 戸塚宿 〜 藤沢宿
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2006-10-07
第6回 戸塚宿 〜 藤沢宿

≪前半≫


第6回・今回の行程 約9q  万歩計 約21900歩

JR戸塚駅‥‥〜清源院(徳川家康の愛妾お万の方の火葬跡)〜内田本陣跡〜沢辺本陣跡〜八坂神社〜冨塚八幡宮(源頼義・義家父子建立)〜上方見附跡〜原宿一里塚〜浅間神社〜諏訪神社〜東海道松並木〜清浄光寺(通称「遊行寺」。一遍開祖の時宗の総本山)

〜前 半〜
JR戸塚駅‥‥〜清源院(徳川家康の愛妾お万の方の火葬跡)〜内田本陣跡〜沢辺本陣跡〜八坂神社〜冨塚八幡宮(源頼義・義家父子建立)〜上方見附跡〜






「清源院入口」信号
右折すると清源院へ。前方「〒」がついているビルが戸塚郵便局で、内田本陣跡です。その先に澤邊本陣跡があります。








■清源院
  戸塚駅前の商店街に沿った国道の「清源院入口」信号を右に入り坂道を上ったところにあります。どちらかというと近代的な建物のお寺です。この清源院は徳川家康の側室、於万の方が創建しました。境内右手の石段を上ったところに於万の方の火葬跡には「当山開基清源院殿尊体火葬之霊迹也」の供養塔があります。
 境内左手には 「井に浮かぶ 番ひの果てや 秋の蝶」 と刻んだ心中の句碑があります。これは戸塚宿内の大島屋亦三郎の子、19歳の大島清三朗と伊勢屋清左衛門の16歳の抱え女郎、ヤマが、この寺の井戸に飛び込み心中をしたことを詠んだものです。江戸時代には御法度となっていた心中を、このように句碑にして建てることはとても珍しいといわれています。
 このほか境内には松尾芭蕉が「おくのほそ道」の須賀川で詠んだ 「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」 の句碑が建てられています。






モダンな本堂




於万の方の「火葬跡 供養碑」


  

左:心中の句碑  右:芭蕉の句碑








■内田本陣跡
 戸塚宿には内田本陣と澤邊本陣の2軒がありました。内田本陣は現在の戸塚郵便局のところにありました。現在は建物など当時を偲ばせるものは何も残っていません。



「戸塚郵便局前」信号




内田本陣跡(現戸塚郵便局)








■澤邊本陣跡
 澤邊本陣は現在の戸塚消防署の隣に跡地が残っています。
 澤邊本陣は宿開設に力を尽くした澤邊宗三が開きました。澤邊氏の当主は代々九郎右衛門の名を継ぎました。明治時代には本陣であった自宅を開放して子供たちのために寺子屋を開くなど学問の普及にも力を注ぎました。 
 明治天皇が江戸に行幸された時は行在所として使用しました。本陣跡には「明治天皇戸塚行在所趾」の碑が建てられています。また、本陣跡地の後ろに鎮座している羽黒神社は澤邊氏が建立したものといわれています。













■羽黒神社
 澤邊本陣跡地の横を入った奥にあります。この羽黒神社は澤邊家が守り神として建立したものといわれています。










こぢんまりとした社殿











■八坂神社
 澤邊本陣跡から暫く歩くと赤い屋根の小さな神社、八坂神社がありました。地元の人からは「お天王さま」といって親しまれています。境内の案内板に八坂神社の神事である「お札まき」の由来が書かれていました。それによりますと、女装した男性10人が町内の各所で音頭に合わせて団扇(うちわ)を使い、5色のお守札(厄除けと五穀豊穣)を舞い飛ばし、町内を巡って回るということです。 
 また、「明治天皇東幸史蹟」の碑が建てられています。









  








■富塚八幡宮
 この富塚八幡宮は戸塚の総鎮守です。「とみづか」は戸塚の地名の語源となったと言われています。
 源頼義、義家父子の軍が、「陸奥の乱」を起こした安倍一族の平定に向う途中、この地で一夜を明かした時に富属彦命(とつきひこのみこと)のお告げを受けました。勝利を収めたことにより、この地に社殿を建立したといわれています。
 境内石段左手には松尾芭蕉の「鎌倉を いきて出けむ はつ松魚」を刻んだ句碑が建てられています。また、石段を上った社殿の奥には木々の繁った小山があります。そこには富属彦命を葬ったといわれる古墳があり、「冨塚之碑」が建てられています。






芭蕉の句碑












木漏れ日のなかに「冨塚之碑」がおります








■上方見附跡
 京都側の入り口・上方見附が「大坂下」信号手前にあります。歩道に面したレストランの一角には、石を積んで松が植えられ、見附の跡を残しています。














■大坂の石仏群
 大阪の途中に石仏群が建っています。これらの石仏はほかの場所に安置されていたものをこの地に集めて保存しているようです。













■大坂
 大坂はだらだらとした長い坂道です。坂道の両側には新しいマンションが建ち並んでいます。

  












■お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
 新しい建物、特にマンションが目立つ坂道をほぼ上りきった辺りに「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑がありました。歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目の中で、塩谷判官の家臣である早野勘平と腰元のお軽が、お軽の在所へ行く「お軽勘平戸塚山中道行の場」という、有名な場面の舞台になったところです。
















午前は大坂を上りきった原宿まで。昼食場所へ。





後半へ


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