第4回 神奈川宿 〜 保土ヶ谷宿
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2006-08-19
第4回 神奈川宿 〜 保土ヶ谷宿

〜前 半〜


今回の歩程 約10km 私の万歩計 19.000歩
JR東神奈川駅‥‥熊野神社〜高札場〜成仏寺〜慶運寺(浦島伝説の寺・フランス領事館跡)〜浄瀧寺(イギリス領事館跡)〜宗興寺〜青木本陣跡〜洲崎神社〜本覚寺(アメリカ領事館跡)〜大綱金比羅神社〜一里塚跡〜神奈川関門跡〜上台橋〜「昼食」〜浅間神社〜追分〜江戸方見附〜旧帷子橋跡〜神明社〜問屋場跡‥‥JR保土ヶ谷駅

〜前 半〜
JR東神奈川駅‥‥熊野神社〜高札場〜成仏寺〜慶運寺(浦島伝説の寺・フランス領事館跡)〜浄瀧寺(イギリス領事館跡)〜宗興寺〜青木本陣跡〜洲崎神社〜本覚寺(アメリカ領事館跡)〜大綱金比羅神社〜一里塚跡〜神奈川関門跡〜上台橋〜「昼食」 





■熊野神社
 熊野神社は、平安時代の創建といわれ、熊野権現(紀州)を勧請し、この地の権現山に祀られました。「権現さま」として近在の人々から親しまれていました。後に江戸時代になってから近くにあった金蔵院に移転、祀られていました。明治政府による神仏分離令によって金蔵院から分離され、現在地に移りました。
 境内には火消しの「神奈川一番組」の記念碑があり、鳥居の両側には立派な狛犬が「阿吽の表情」で建っています。また、境内には神奈川宿の大火、関東大震災、太平洋戦争の戦災と三度の大火を生き抜いてきた「火伏せのいちょう」があります。
 



    






■高札場
 高札場は徳川幕府が定めた法令、禁令などを一般町民に周知徹底させるため設けられた重要な掲示板でした。
  この高札場は、滝の川の橋の袂にあった神奈川町本陣(石井本陣)の近くに置かれてありました。現在の神奈川県警察署西側付近です。道路拡幅工事などにより近くの神奈川地区センター前に復元されています。




 

写真は左側の高札です。徳川幕府が定めた法令、禁令等は木札に墨書して庶民に公示しました。







■成佛寺
 浄土宗・成佛寺。
 鎌倉時代の創建といわれています。当初は神奈川本陣近くにありましたが、三代将軍徳川家光が上洛の折り宿泊する施設を建てるために現在地に移転しました。
 幕末の1859(安政6)年の横浜開港の際には、この成佛寺はアメリカ人宣教師の宿舎にあてられました。この時に本堂を住居にしていたのが医者のヘボン博士でした。ローマ字のヘボン式表記法を考案した人物として知られています。また、わが国初の和英辞典を著し、明治学院を創設するなど教育近代化に多大な功績を残しました。

    







■慶運寺 (通称 浦島寺)
 浄土宗・慶運寺。
 室町時代の創建といわれます。
 成佛寺の北側に位置する慶運寺は、幕末の横浜開港時はフランス領事館として使用されていました。また、1868(慶応4)年の大火で焼失した浦島伝説を持つ浦島院観福寿寺を併合したので浦島寺といわれています。亀の台座を持った観音石塔が門前に建ち、浦島伝説にまつわる観音像などがこの寺に残されています。

  










■神奈川の大井戸
 宗興寺の東側にある道路に面した一角に、この「神奈川の大井戸」があります。江戸時代には宗興寺を「大井戸寺」というほどの名井戸に数えられていました。 この井戸は「お天気井戸」ともいわれ、村民、旅人が水の増減から翌日の天候を判断していたようです。
  また、この井戸の水は本陣に宿泊する将軍の茶の湯用として献上したともいわれています。
 








■宗興寺
 曹洞宗・宗興寺。
 横浜開港当時にアメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士が施療所(診療所)を開いた場所がこの寺でした。本堂の横には「ヘボン博士施療の地」の碑が建立されています。












■神奈川台場跡
 勝海舟の設計による海防砲台です。総面積約26,000平方メートル、大砲を14門を備えたこの施設は一年ほどの工事の末、1860(万延元)年に完成しました。明治32年に廃止となり、大正末期頃から埋め立てがはじめられました。現在は石垣の一部が残っているだけですが、当時を偲ぶことができます。




  










■神奈川町本陣跡と青木町本陣跡
 慶長6年(1601)、東海道に宿駅・伝馬の制が定められたとき、市域では神奈川、保土ケ谷の二宿(戸塚宿はその後の設置。)が設けられました。
 神奈川宿は、滝の橋をはさんで、東の神奈川町、西の青木町に本陣ができ、神奈川は石井家(源左衛門)、青木は鈴木家(源太左衛門)が任命されました。神奈川町本陣跡は、現小野モータースあたり、青木町本陣跡は、現横浜銀行中央市場支店あたりです。
 本陣は、幕府より指定された大名・久家・役人などの宿泊・休憩する施設です。                           (下の案内板より引用)

 


  

写真左:神奈川町本陣跡  写真右:青木町本陣跡  









「浦志満」
「亀の甲せんべい」は、この地の名物のようです。この日は店休日でした。







■洲崎大神
 東海道沿いにある宮前商店街の中にある洲崎大神は、1192(健久2)年、源頼朝が安房国一宮の安房神社を勧請して創建したといわれます。
 神社前から海に向かって延びる道(当時の参道)が第一京浜に突き当たるあたりにかつては船着場がありました。












■本覚寺
 曹洞宗・本覚寺。
 臨済宗を開いた栄西の創建といわれます。戦国時代には度重なる戦により寺は荒廃の極に達しましたが、1532(天文元)年に曹洞宗の寺として再興されました。
  寺は青木橋を渡った丘の上にあります。山門脇にはアメリカ領事館跡を示す石碑と樹齢200年を超すスダシイがあります。ここを領事館として選んだのはハリスでした。その時、山門を白ペンキで塗りました。これが我が国でのペンキ塗装の始めといわれています。
 領事館跡の碑の横に「岩瀬肥後守忠震」の顕彰碑があります。岩瀬は幕末の三傑と呼ばれた幕臣で、開国を推し進め、難航のした日米通商条約の交渉をまとめ調印にこぎつけ、横浜海港に尽くしました。しかしながら大老井伊直弼と激しく対立してしまい、左遷の苦渋を味わい、明治の新しい時代を目にすることなく他界しました。

  


  










■浄瀧寺
 日蓮宗・浄瀧寺。
 横浜開港のころはイギリス領事館として使われました。









■大綱金刀比羅神社
 平安時代末期の創建といわれます。後に琴平神社を合祀したことにより現在の名前になりました。
■一里塚
 日本橋から数えて7里目の一里塚。当時は参道の入り口に一里塚がありました。




  

風雨で折れたイチョウの木に天狗の顔が彫られていました。







■料亭 田中家
 この袖ヶ浦の地は眺めがとても良く、江戸時代には茶店が軒を並べたといわれます。
  往時には数十軒あったという茶店は、現在は「文久三年 田中家」の看板が板塀下げられている、ここだけになってしまったそうです。
 ここは台町の坂道の途中にあります。板塀のコンクリートの土台部分の造りを見れば坂道の様子がうかがえます。









■台町の坂道 
  ここ台町はかつては袖ヶ浦と呼ばれる海に面した高台だったそうです。晴れた日には本牧の岬などを眺望できるところとして作家、画家などに人気があったようです。海岸の埋め立てが繰り返された現在は一直線の坂道と料亭田中家だけが都会化したなかで、往時の名残を留めています。



田中家あたりから振り返って見たようす。写真で見るより急坂です。







■神奈川台関門跡「袖ヶ浦見附所」
 幕末の1854(安政元)、日米和親条約の交渉が始まり、幾多の困難の末に条約が締結されたことにより神奈川は開港場となりました。これにより生麦事件をはじめ外国人が何人も殺傷される事件が頻発したため外国政府の要望により幕府は、1859(安政6)年 横浜周辺の主要地点に関門や番所を設置して警護体制を講じました。その結果、神奈川宿では東西2カ所に関所が設けられ厳しい警護体制を敷きました。西に設けられた関門が台町の「神奈川台関門」でした。など2か所に関門を設けるなどして厳しい警護体制を敷きました。  




  







■上台橋
この付近が、神奈川宿の上方見附でした。この辺りの東海道は海岸沿いとなっていました。横浜開港後は、この手前の坂上に神奈川台関門(神奈川宿西側関門)が設置されました。 1930(昭和5)年、開発が進み沢渡に抜ける掘割式の道路が横切ることになり、上台橋が架けられました。 







後半に続く



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