v第5回 保土ヶ谷宿 〜 戸塚宿
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2006-09-23
第5回 保土ヶ谷宿 〜 戸塚宿

≪前半≫


今回の歩程 約10km 私の万歩計 22.000歩
 JR保土ヶ谷駅…高札場〜金沢横丁道標〜本陣跡(軽部家)〜一里塚跡〜外川神社〜樹源寺〜権太坂(江戸より最初の難所)〜投込塚〜若林家〜境木地蔵〜焼餅坂〜品濃一里塚跡〜護良親王首洗井戸〜五太夫橋〜江戸方見付跡〜一里塚跡〜吉田大橋〜善了寺〜…JR戸塚駅

≪前半≫
 JR保土ヶ谷駅…高札場〜金沢横丁道標〜本陣跡(軽部家)〜一里塚跡〜外川神社〜樹源寺〜権太坂(江戸より最初の難所)〜投込塚〜






 JR保土ヶ谷駅前にある案内板。旧東海道は右上角あたりから、左中央端近くへ点線で示されています。













 前回の終着地(問屋場跡・助郷会所跡)あたり。 この先、高札場跡、金沢横丁道標、軽部本陣跡と続きます。







■高札場跡
 1763年(宝暦13)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅約4.5メートル(二間半)、高さ約3メートル(約一丈)の規模でした。



危うく見落としてしまうところでした。








■金沢横丁道標
 東海道、金沢道の分岐点に4つの道標が立っている。ここには見るからに歴史を偲ばせる古4つの道標があります。左から・・・
  「円海山之道(1783年建立)」
  「かなざわ かまくら道(1682年建立)」
  「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花(1814年建立)」
  「冨岡山芋大明神社の道(1845年建立)」とある。






道標の左隣りには「番所」の提灯を吊した案内所がありました。










JR東海道線踏切を渡り、国道一号線に突き当たる所に軽部本陣跡がありました。








■保土ヶ谷宿本陣(軽部家)跡
 1601(慶長6)年、東海道伝馬制度を定めた将軍徳川家康が「伝馬朱印状」を「ほどがや」(保土ヶ谷町)に発したことにより保土ヶ谷宿ができました。
 保土ヶ谷宿本陣は、小田原北条氏の家臣、苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が務めました。苅部家は問屋・名主も兼ねるなど保土ヶ谷宿内の有力な家柄でした。時代は変わり明治になり本陣が廃止され、苅部姓から軽部姓に改め、今日に至っています。
 保土ヶ谷宿には藤屋、水屋、大金子屋の3軒の脇本陣がありました。













■脇本陣(藤屋)跡
天保年間の藤屋の規模。
 建坪119坪(約393平方メートル)  間口6間半(約11.8メートル)
 奥行18間(約32.7メートル)     室数14 玄関つき










■脇本陣(水屋)跡
天保年間の水屋(与右衛門)の規模。
 建坪128坪(約423平方メートル)  間口8間半(約14.5メートル)
 奥行16間(約29メートル)      室数14 玄関門構えつき










■旅籠屋(本金子屋)跡
天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模。
 建坪79坪(約261平方メートル)  間口7間(約12.7メートル)
 奥行11間半(約20.9メートル)   室数13
 この本金子屋を営む金子家はいつの頃かは定かではありませんが、脇本陣の役目を受け持つようになっていたといわれています。
 この建物にはご子孫の方が住まわれています。路上より見学していましたら、当主の方が屋内より出てこられ旅籠の建物内部や貴重な品々を見ることができました。

  








■外川神社
 外川神社は、保土ヶ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達であった清宮與一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝し、明治二年この地に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧講したもので、以来、小児の虫封じ、航海安全に利益があるとされてまいりました。
 明治初年神佛、神佛分離令の発布によって祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。
 そして平成六年九月十三日、今井川河川改修工事にともない無格外川神社は宗教法人として認可され現在にいたりました。                 (由来記板より引用)







  

写真左:今井川  写真右:外川仙人社の碑








■湯殿山供養塔
 外川神社の少し先に「湯殿山供養塔」があります。「保土ヶ谷宿 文化庚午年 三月吉祥日再建」と刻んでありました。この供養塔のすぐ傍に一里塚があったという説もあるそうです。











「保土ヶ谷二丁目」信号
Y字形を右に入って旧東海道に歩を進め、難所の権太坂へと向かいます。








■樹源寺
 寛永年間初期(1624〜43)、本陣苅部家二代目当主の苅部吉重の妻が日蓮宗に帰依した際に、廃寺となっていた樹源寺の薬師堂脇に庵を建て、日蓮宗身延山久遠寺の末寺として開山しました。
 保土ヶ谷の民話に伝えられている樹源寺の大けやきは樹齢700年余りの巨木でした。残念なことに自動車などの排気ガスによる大気汚染のために枯れはじめました。そして昭和45年、ついに伐採されてしまいました。
 明治時代に活躍した新史劇の劇作家、山崎紫紅(やまざきしこう)のお墓があることでも知られています。また、JR東海道線の線路敷設により開通後は境内が二分されたことにより、墓地へ行くには踏切を渡らなければなりません。
 訪れたときは檀家の法要が営まれていて、境内への見学・拝観ができませんでした。

 








■保土ヶ谷宿の「いちはつ」の花
 かつてはこの辺り(元町)の民家の茅葺屋根の上に、六月頃になるとアヤメ科の植物「いちはつ」が紫色の可憐な花を咲かせました。咲き乱れている様子はとても風情があったようで、行き交う旅人の心を和まし評判になりました。昭和30年代頃までは見ることができたようですが、今日では残念ながら見ることはできません。
 明治の初めこの地を訪れたロシア人植物学者がこの趣きのある風景を賞賛し、広く世間に紹介しました。その名は海外にも知られるようになったそうです。

 

元町橋と袂に植えられているいちはつ










この先を右折するといよいよ権太坂です。








■権太坂
 江戸を出て最初の難所といわれたのが、この急坂「権太坂」です。絵図や文献から当時の「権太坂」の苦行ぶりは並大抵ではなかった様子が判ります。
 自分の足で歩き、改修前の地形などを想像すると権太坂を越えることが果たせず、息絶えた旅人がでたことが容易に理解できます。故に死した旅人を葬るための投げ込み塚まであったのでしょう。
 権太坂の地名の由来ですが、旅人が坂の名を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと勘違いをして「権太だあな」と答えたのが地名の由来になったといわれています。
 現在の箱根駅伝に登場する権太坂は、この旧道権太坂ではなく、新道権太坂です。



権太坂のはじまり・・・。起伏のある坂道が1.5q前後続きます。







急坂を歩き始めて出会う権太坂改修記念碑




屋根とか塀の水平面をみると坂の様子がわかります。




横浜横須賀道路を眼下に・・・。







「横浜みなとみらい21」の高層ビルが視界に・・・。




新しい「権太坂」の道標







きつい坂道の連続・・・。




晴天なら富士山の眺望見事なり・・・です。




苦しんだ坂道もいま少し・・・。








■投込塚
 江戸を発った旅人が最初に出会う難所が権太坂です。病などで力尽き命を落とした旅人を葬ったのがこの塚です。近年発掘調査をしたところ当時の旅人と思われる人骨が数多く見つかりました。人骨は近くの東福寺に埋葬し、ここに新しく供養碑を建立して弔いました。






後半へ



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