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JR保土ヶ谷駅…高札場〜金沢横丁道標〜本陣跡(軽部家)〜一里塚跡〜外川神社〜樹源寺〜権太坂(江戸より最初の難所)〜投込塚〜若林家〜境木地蔵〜焼餅坂〜品濃一里塚跡〜護良親王首洗井戸〜五太夫橋〜江戸方見付跡〜一里塚跡〜吉田大橋〜善了寺〜…JR戸塚駅 |
JR保土ヶ谷駅前にある案内板。旧東海道は右上角あたりから、左中央端近くへ点線で示されています。 |
前回の終着地(問屋場跡・助郷会所跡)あたり。 この先、高札場跡、金沢横丁道標、軽部本陣跡と続きます。 |
「円海山之道(1783年建立)」 「かなざわ かまくら道(1682年建立)」 「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花(1814年建立)」 「冨岡山芋大明神社の道(1845年建立)」とある。 |
保土ヶ谷宿本陣は、小田原北条氏の家臣、苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が務めました。苅部家は問屋・名主も兼ねるなど保土ヶ谷宿内の有力な家柄でした。時代は変わり明治になり本陣が廃止され、苅部姓から軽部姓に改め、今日に至っています。 保土ヶ谷宿には藤屋、水屋、大金子屋の3軒の脇本陣がありました。 |
建坪119坪(約393平方メートル) 間口6間半(約11.8メートル) 奥行18間(約32.7メートル) 室数14 玄関つき |
建坪128坪(約423平方メートル) 間口8間半(約14.5メートル) 奥行16間(約29メートル) 室数14 玄関門構えつき |
建坪79坪(約261平方メートル) 間口7間(約12.7メートル) 奥行11間半(約20.9メートル) 室数13 この本金子屋を営む金子家はいつの頃かは定かではありませんが、脇本陣の役目を受け持つようになっていたといわれています。 この建物にはご子孫の方が住まわれています。路上より見学していましたら、当主の方が屋内より出てこられ旅籠の建物内部や貴重な品々を見ることができました。 |
明治初年神佛、神佛分離令の発布によって祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。 そして平成六年九月十三日、今井川河川改修工事にともない無格外川神社は宗教法人として認可され現在にいたりました。 (由来記板より引用) |
寛永年間初期(1624〜43)、本陣苅部家二代目当主の苅部吉重の妻が日蓮宗に帰依した際に、廃寺となっていた樹源寺の薬師堂脇に庵を建て、日蓮宗身延山久遠寺の末寺として開山しました。 保土ヶ谷の民話に伝えられている樹源寺の大けやきは樹齢700年余りの巨木でした。残念なことに自動車などの排気ガスによる大気汚染のために枯れはじめました。そして昭和45年、ついに伐採されてしまいました。 明治時代に活躍した新史劇の劇作家、山崎紫紅(やまざきしこう)のお墓があることでも知られています。また、JR東海道線の線路敷設により開通後は境内が二分されたことにより、墓地へ行くには踏切を渡らなければなりません。 訪れたときは檀家の法要が営まれていて、境内への見学・拝観ができませんでした。 |
明治の初めこの地を訪れたロシア人植物学者がこの趣きのある風景を賞賛し、広く世間に紹介しました。その名は海外にも知られるようになったそうです。 |
自分の足で歩き、改修前の地形などを想像すると権太坂を越えることが果たせず、息絶えた旅人がでたことが容易に理解できます。故に死した旅人を葬るための投げ込み塚まであったのでしょう。 権太坂の地名の由来ですが、旅人が坂の名を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと勘違いをして「権太だあな」と答えたのが地名の由来になったといわれています。 現在の箱根駅伝に登場する権太坂は、この旧道権太坂ではなく、新道権太坂です。 |
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