JR保土ヶ谷駅…高札場〜金沢横丁道標〜本陣跡(軽部家)〜一里塚跡〜外川神社〜樹源寺〜権太坂(江戸より最初の難所)〜投込塚〜若林家〜境木地蔵〜焼餅坂〜品濃一里塚跡〜護良親王首洗井戸〜五太夫橋〜江戸方見付跡〜一里塚跡〜吉田大橋〜善了寺〜…JR戸塚駅 |
萩原家は、平戸の領主である杉浦越前守の代官職を代々勤めました。1851(嘉永4)年、行篤が江戸で剣術・直心影流)の免許皆伝となり、この地で道場を開きました。 萩原道場には、多くの名剣客が訪れています。理心天然流の近藤勇(三代目継承、後に新撰組隊長となる)が、1858(安政5)年8月に他流試合に訪れています。萩原家に保存されている「剣客名」には「八月御停止中に付試合無之候」と近藤勇の直筆が残されています。現在もご子孫の方が住んでいるということです。 |
境木立場には名物の牡丹餅を売る茶店があり、とても賑わっていたといわれます。この茶店(屋号:立場屋)を営んでいたのが若林家でした。現在もご子孫の方が住んでいるということです。 |
元町から権太坂の長い坂道を上り切り、緩やかな下り坂を暫く歩くと武蔵国と相模国の国境である境木(さかいぎ)に辿り着きます。この「武相国境之木」広場は道路拡幅整備に伴って作られました。 |
近年まで樹木が繁って薄暗かったという焼餅坂は切通しとなっていました。宅地開発や道路拡幅整備工事などが行われ、左側の斜面は草木に覆われてますが、右側は歩道が設けられました。昔の姿は消えてしまったようです。 下り終えて暫く歩くと前方に、品濃(しなの)一里塚が見えるようになります。 |
江戸日本橋から9番目のこの品濃一里塚は、長い間放置したため樹木が成長してうっそうとした森になっていますが、左右の塚が当時のまま残っているのは神奈川県ではここだけとなっています。このため県の史跡に指定されています。 この塚にも目印として大きな榎がありました。今でも塚の中心にその根本が残っています。塚の大きさは、約16.5メートル四方の広さがあります。品濃側の塚は、今でもほとんど当時の姿で保存されています。然し残念なことに平戸側は、塚の一部削られてしまい、上部は一里塚公園になっています。 (訂・2006-11-19) |
権太坂-焼餅坂-品濃坂と高低差の大きい峠道は江戸発ちの旅人にとって最初の難所であったであろうことが、実感できました。 |
旧家益田家の手前を右に入ると街道の面影が残る一角に、道標が建ち並ぶ大山前不動堂はあります。大山前不動堂の中に、巡礼者の道中安全を祈念する「是(これ)より大山道」と記された台座に座る「大山不動尊」が安置されています。 また、堂前には @従是大山道 A右江大山道 B五処橋供養 C庚申塔 などの石碑があり、多くの巡礼客で賑わいをみせたころの面影を偲ぶことができます。 古典落語の代表作の一つ「大山詣り」では、江戸っ子仲間の珍道中が面白可笑しく語られています。例えば東海道の神奈川宿で大騒ぎしたり、家族に金沢八景に行ったと嘘をつく場面が出てきます。江戸っ子仲間の一行は、この大山道を歩いたのでしょうか。 |
護良親王は後醍醐天皇の皇子で元弘の乱が起こると楠木正成とならび官軍勝利のきっかけを成し遂げました。のちに武家政治の再興を志す足利氏により関東に下され、尊氏の弟・直義のもとに幽閉されました。 鎌倉幕府の残党北条時行らの一軍が鎌倉を攻め立てると直義は鎌倉を支えきれず、遁走に際して、護良親王は1335(建武2)年7月23日、鎌倉の東光寺において殺害されました。 |
レストラン前の見付跡は、こじんまりとしていますが松が植えられ、きれいに整備されています。往時は、江戸より大名や幕府要人などの一行が到着すると、名主や宿役人などが裃(かみしも)姿でこの見付まで出向いて迎え、宿内に案内しました。 |
日蓮宗妙秀寺。 初代歌川広重が保永堂版『東海道五拾三次之内』の「戸塚宿」で、画の中に「こめや」という茶屋の看板と「左りかまくら道」と記された道標が描かれていますが、この寺にはこの道標と言い伝えられている石柱があります。 |
橋の手前を左折すると鎌倉方面へ、橋を渡って道なりに進むとJR戸塚駅に出ます。 |
もともとは真言宗の寺でありましたが、1233(天福元)年親鸞上人60歳のとき、東京麻布の善福寺了海の弟子、了全が浄土真宗に改宗しました。 |
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