第5回 保土ヶ谷宿〜戸塚宿・2
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2006-09-23
第5回 保土ヶ谷宿 〜 戸塚宿

≪後半≫


今回の歩程 約10km 私の万歩計 22.000歩
 JR保土ヶ谷駅…高札場〜金沢横丁道標〜本陣跡(軽部家)〜一里塚跡〜外川神社〜樹源寺〜権太坂(江戸より最初の難所)〜投込塚〜若林家〜境木地蔵〜焼餅坂〜品濃一里塚跡〜護良親王首洗井戸〜五太夫橋〜江戸方見付跡〜一里塚跡〜吉田大橋〜善了寺〜…JR戸塚駅

≪後半≫
 〜若林家〜境木地蔵〜焼餅坂〜品濃一里塚跡〜護良親王首洗井戸〜五太夫橋〜江戸方見付跡〜一里塚跡〜吉田大橋〜善了寺〜…JR戸塚駅






■萩原代官屋敷・萩原道場跡
 投込塚から街道に出て暫く歩いて細い脇道に入り、竹林、紫陽花の中を下っていくと騒音のない世界が広がり、立派な武家門構えの萩原代官屋敷・萩原道場跡がありました。
 萩原家は、平戸の領主である杉浦越前守の代官職を代々勤めました。1851(嘉永4)年、行篤が江戸で剣術・直心影流)の免許皆伝となり、この地で道場を開きました。 
 萩原道場には、多くの名剣客が訪れています。理心天然流の近藤勇(三代目継承、後に新撰組隊長となる)が、1858(安政5)年8月に他流試合に訪れています。萩原家に保存されている「剣客名」には「八月御停止中に付試合無之候」と近藤勇の直筆が残されています。現在もご子孫の方が住んでいるということです。











当時を偲ばせる武家門


  

写真左:門前の説明板   写真右:説明板の絵図部分の拡大







■若林家
 立場(たてば)とは、街道筋で馬や旅人が小休止するための休憩所のことです。 
 境木立場には名物の牡丹餅を売る茶店があり、とても賑わっていたといわれます。この茶店(屋号:立場屋)を営んでいたのが若林家でした。現在もご子孫の方が住んでいるということです。








■境木立場
 立場(たてば)とは、街道筋で馬や旅人が小休止するための休憩所のことです。この立場は江戸からきた老若男女の旅人が難所の急坂を息絶え絶えにして無事登りきり、一息つける場所であったといわれ、このため茶屋が軒を連ねて商売をしていたといわれます。









■武蔵国・相模国の国境
 境木とは、武蔵国と相模国の国境を分かり易くするための目印の木柱があった場所で、その木柱となったのは地蔵尊境内の大けやきで、その役目を担っていたと伝えられています。
 元町から権太坂の長い坂道を上り切り、緩やかな下り坂を暫く歩くと武蔵国と相模国の国境である境木(さかいぎ)に辿り着きます。この「武相国境之木」広場は道路拡幅整備に伴って作られました。











■境木地蔵尊
  境木地蔵尊は、武蔵国と相模国との国境いの峠を上りきった所にありました。地蔵尊は道中の安全をお願いする旅人で賑わったようです。また、地蔵尊にまつわる民話もあり、近在の人々にも親しまれていたようです。














新しい道標
左 旧東海道  右 環状二号線







■焼餅坂
 このあたりに焼餅を売る茶店があったところからこの名がついたといわれます。また牡丹餅坂ともいわれていました。
 近年まで樹木が繁って薄暗かったという焼餅坂は切通しとなっていました。宅地開発や道路拡幅整備工事などが行われ、左側の斜面は草木に覆われてますが、右側は歩道が設けられました。昔の姿は消えてしまったようです。
 下り終えて暫く歩くと前方に、品濃(しなの)一里塚が見えるようになります。




















前方右の木立は品濃一里塚







■品濃一里塚
江戸・日本橋から9番目の一里塚
 ここは日本橋から9番目の一里塚があったところです。昔の旅は、家族や親類縁者とのしばしの別れを告げての行程が多かったと思います。その意味で街道の一里塚は旅人にとって、一時の心の慰めになったことであろうと想像できます。
 江戸日本橋から9番目のこの品濃一里塚は、長い間放置したため樹木が成長してうっそうとした森になっていますが、左右の塚が当時のまま残っているのは神奈川県ではここだけとなっています。このため県の史跡に指定されています。
 この塚にも目印として大きな榎がありました。今でも塚の中心にその根本が残っています。塚の大きさは、約16.5メートル四方の広さがあります。品濃側の塚は、今でもほとんど当時の姿で保存されています。然し残念なことに平戸側は、塚の一部削られてしまい、上部は一里塚公園になっています。                        (訂・2006-11-19)



風雪に浸食されてしまった道標




木々が覆い繁る一里塚周囲




近年手入れが行き届いている一里塚







■品濃坂
 品濃一里塚を過ぎて暫く歩くと旧東海道は品濃の丘陵地帯の高所部に入り遠方が見渡せるようになりホッとします。「旧東海道 品濃坂」の標識を過ぎると下り坂になります。環状二号線を歩道橋で渡ります。渡った後も下り坂が続きます。
 権太坂-焼餅坂-品濃坂と高低差の大きい峠道は江戸発ちの旅人にとって最初の難所であったであろうことが、実感できました。

















下り終えて小休止したくなる頃、東海道と合流しました。









前方左の木立は旧家益田家、モチの巨木は有名です。







■大山前不動・大山道道標など
   旧家益田家の手前を右に入ると街道の面影が残る一角に、道標が建ち並ぶ大山前不動堂はあります。大山前不動堂の中に、巡礼者の道中安全を祈念する「是(これ)より大山道」と記された台座に座る「大山不動尊」が安置されています。
また、堂前には
  @従是大山道  A右江大山道  B五処橋供養  C庚申塔
などの石碑があり、多くの巡礼客で賑わいをみせたころの面影を偲ぶことができます。
 古典落語の代表作の一つ「大山詣り」では、江戸っ子仲間の珍道中が面白可笑しく語られています。例えば東海道の神奈川宿で大騒ぎしたり、家族に金沢八景に行ったと嘘をつく場面が出てきます。江戸っ子仲間の一行は、この大山道を歩いたのでしょうか。




  

左:@従是大山道  右:A右江大山道


  

左:B五処橋供養  右:C庚申塔







  

益田家のモチの木







■護良(もりなが)親王首洗井戸
 益田家の先から旧道に入って暫く歩き、成正寺近くの新しい住宅が建ち並ぶ一角の木々の繁った所に護良親王の首を洗ったという伝説が残る首洗い井戸があります。
 護良親王は後醍醐天皇の皇子で元弘の乱が起こると楠木正成とならび官軍勝利のきっかけを成し遂げました。のちに武家政治の再興を志す足利氏により関東に下され、尊氏の弟・直義のもとに幽閉されました。
 鎌倉幕府の残党北条時行らの一軍が鎌倉を攻め立てると直義は鎌倉を支えきれず、遁走に際して、護良親王は1335(建武2)年7月23日、鎌倉の東光寺において殺害されました。
  







■江戸方見付跡
 戸塚宿の江戸側の入り口にあたる江戸方見付跡です。これより先、約3.5qの町並が東海道戸塚の宿場町です。日本橋から戸塚宿は約十里(約40q)です。江戸を早朝に出て夕刻前に到着するため、多くの旅人は第1日目の宿をこの宿場にしました。
 レストラン前の見付跡は、こじんまりとしていますが松が植えられ、きれいに整備されています。往時は、江戸より大名や幕府要人などの一行が到着すると、名主や宿役人などが裃(かみしも)姿でこの見付まで出向いて迎え、宿内に案内しました。

















■妙秀寺
 日蓮宗妙秀寺。
 初代歌川広重が保永堂版『東海道五拾三次之内』の「戸塚宿」で、画の中に「こめや」という茶屋の看板と「左りかまくら道」と記された道標が描かれていますが、この寺にはこの道標と言い伝えられている石柱があります。









広重の絵に描かれている道標といわれています。







■戸塚一里塚跡
江戸・日本橋から10番目の一里塚
 ここは日本橋から10番目の一里塚です。旧東海道のこの一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年街道の付属施設として1里ごとに造られましたが、国道拡幅により遺跡保存となりました。
  







■吉田大橋
  橋のたもとに広重の絵が埋め込まれています。初代歌側広重が『東海道五拾三次之内」で、戸塚宿を描いた場所であることが分かります。
 橋の手前を左折すると鎌倉方面へ、橋を渡って道なりに進むとJR戸塚駅に出ます。




  







■善了寺
 浄土真宗大東山宝林院善了寺。
 もともとは真言宗の寺でありましたが、1233(天福元)年親鸞上人60歳のとき、東京麻布の善福寺了海の弟子、了全が浄土真宗に改宗しました。

  

写真右:モダンな石造りの本堂。本堂前に浄土真宗開祖、親鸞上人像があります。














  

今回はJR戸塚駅踏切手前(写真左)で打ち止め。JR戸塚駅コンコース(写真右)で解散となりました。





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