第2回 品川宿〜川崎宿2
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2006-04-03
第2回 品川宿 〜 川崎宿

≪後半≫


■今回の道程 (約10q) (私の万歩計約26,200歩)
R品川駅前〜八ツ山橋〜品川宿〜荏原神社〜長徳寺〜天妙国寺〜品川寺(江戸六地蔵)〜涙橋〜鈴ヶ森刑場跡〜磐井神社〜アートホテルズ大森(昼食)〜梅屋敷跡〜六郷神社〜止め天神〜川崎宿〜JR川崎駅

〜 後 半 〜
〜梅屋敷跡〜六郷神社〜止め天神〜川崎宿〜JR川崎駅








川崎まで、ガンバロウ・・・




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巨大歩道橋を渡る






磐井神社
 「三代実録」によれば、貞観元年(859)「武蔵国従五位下磐井神社官社に列すとあり、当社を武州の八幡社の総社に定めたといわれる。
 また「延喜式神名帳」に記載されている古社であり、当社の由緒書によれば、徳川家の将軍もここに参詣したことが記されている。
 万葉集の「草陰の荒簡簡の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。
                                   (案内板より)
 この神社は「磐井の井戸」、「鈴石」、「烏石」などで知られています。
 神社前の歩道には前述の「磐井の井戸」跡があります。言い伝えによると,善人が飲めば清水で,悪人が飲むと塩水になるという井戸だったそうです。
 また、鈴石は転がすと鈴の音がするというので江戸初期の頃に有名になりました。鈴ヶ森の地名はこの話からきたともいわれています。




  

歩道の植え込みの中にある「磐井の井戸」跡









風雪に耐えてきたご神木








右が第一京浜国道、左が旧東海道





三原通り






美原通り(みはらどおり)
 東海道は江戸と京都を結ぶ最も重要な道でした。参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用されました。
 1927(昭和2)年、東海道は拡幅改修されて第一京浜国道が完成しました。このため往時の拡幅を残しているのが、この美原通りと六号地区の一部だけとなりました。
 この辺りの旧東海道は三原通りといわれていました。三原とは字名の南原、仲原、北原の三原のことで、美称して「美原」になりました。
 歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で有名な旅籠「駿河屋」のあった「するがや通り」は内川橋の際から分かれました。







古木の桜が美しい



 

内川橋
見かける小さな河川の堤は「堤防」ではなく「岸壁形」や「掘割形」になってしまいました。






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旧東海道から再び第一京浜国道へ






梅屋敷跡
 梅屋敷は旅人の常備薬「和中散」を製造・販売していた山本家が、屋敷内に多くの梅の木を植え、茶屋を開いたものでした。当時は風情溢れるこの茶屋は多くの人々で賑わいました。現在では往時を偲べませんが、園内は手入れの行き届いた梅林、江戸時代の文人の句碑、歌碑が多くあります。また、徳川将軍も鷹狩りのおりには休憩に立ち寄ったといわれています。




  

左:里程碑(復元) 右:「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」の碑



  

左右ともに歌碑





手入れの行き届いた梅園が楽しめる






川崎を目指して第一京浜国道を行く・・・

          





          

      六郷工科高校の満開の桜の下を行く






六郷神社
 1057(天喜5)年、東北の乱平定に源頼義・義家父子が出陣となり、この地にあった大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、石清水八幡に戦勝祈願をしました。父子は戦勝を祝いここに石清水八幡を勧請したのが創建といわれています。
  









社殿





六郷橋の碑





こじんまりとしたご神橋



  








六郷神社を後に、この先の旧東海道へ戻る






止め天神(北野神社)
 止め天神は「徳川第8代将軍、吉宗公の乗馬が暴走して、あわやというときに北野天神のご加護により将軍の落馬を止めた」という由来によります。落馬という言葉を省いて「止め天神」と親しみを込めていいます。当時の人々は、身の上に降りかかる悪業を止めてくれる天神さんとして崇めていました。




  


















県境を越える
多摩川の堤防の階段を上り、六郷橋の上で東京都太田区から神奈川県川崎市に入ります

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        ↓







川崎宿に入りました






六郷の渡し
 多摩川は関東の大河川の一つで、その下流域に六郷川があります。この六郷川は東海道の交通を遮る障害となっていました。そこで1600(慶長五)年、徳川家康は、六郷川に「六郷大橋」を架けました。交通の便は良くなりましたが、洪水のたびに修復や架け直しが行われました。
 元禄元年(1688)七月、大洪水がおきました。橋は跡形もなく流されました。以来、架橋はやめ、明治に入るまで渡船による交通が続きました。現在は多摩川の名称になり、船着場の下流位置に「新六郷大橋」が架けられています。往時を偲ぶものは残っていませんが、大橋の欄干に渡船の飾りが施されているのがその証でしょうか。









  

「明治天皇六郷渡御絵図」の碑



  

左:川崎大師のモニュメント  右:長十郎梨の説明板








歩道に建つ案内の石柱











  

田中本陣跡
 治水家として知られた田中丘隅旧居跡でもあります。現在は小児科医院となっています。往時の面影を残すものは何もありません。  2006-04-29






一行寺
 宗派は浄土宗です。1623(元和9)年ころの開創といわれています。
 本陣(兵庫)が火災などの場合、宿泊者の避難所にあてられていました。
 境内にある「仮山碑」は、時の名主稲浪氏が宿民中村翁の庭園を讃えて詠じた詩文を刻んだものです。また、川崎宿で寺子屋「玉淵堂」をひらき、太田南畝などと交誼のあった能書家浅井忠良の墓などもあります。
















宗三寺
 中世前期、この地に勝福寺があり、1263(弘長3)年在地領主の佐々木泰綱が中心になり、浄財をあつめて梵鐘が造られました。勝福寺はその後不詳で、宗三寺はその後身とみられます。戦国時代この地を知行した間宮氏がこの寺を中興しています。
 墓地には大阪方の牢人で、1615(元和元)年川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や川崎宿の遊女の供養碑などがあります。














「砂子町」交差点。今回はここで打ち止め・・・




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