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2006-04-03
第2回 品川宿 〜 川崎宿

≪前半≫


■今回の道程 (約10q) (私の万歩計約26,200歩)
JR品川駅前〜八ツ山橋〜品川宿〜荏原神社〜長徳寺〜天妙国寺〜品川寺(江戸六地蔵)〜涙橋〜鈴ヶ森刑場跡〜アートホテルズ大森(昼食)〜磐井神社〜梅屋敷跡〜六郷神社〜止め天神〜川崎宿〜JR川崎駅

〜 前 半 〜
JR品川駅前〜八ツ山橋〜品川宿〜荏原神社〜長徳寺〜天妙国寺〜品川寺(江戸六地蔵)〜涙橋〜鈴ヶ森刑場跡〜アートホテルズ大森(昼食)






   

今回のスタート地点。JR品川駅前 (写真右:「鉄道列車出発時刻及び賃金表」の碑)








さあッ 出発 !






      

高山神社






八ツ山
 東海道一番の宿場として栄えた品川宿ですが、八ツ山は宿の中心から離れていたため寂しいところでした。江戸時代中ごろになると近くにある御殿山とともに桜の名所として知られるようになりました。
 八ツ山の名は、この地が武蔵野台地の突端にあって海岸となっていました。そこに八つの州があったために「八ツ山」といわれていました。




八ツ山橋近くの御殿山






 八ッ山橋の親柱
  この橋は跨線橋で明治5年、新橋−横浜間に鉄道敷設の際掘削した上に架けられました。今では桜の名所といわれたこの辺りの風景は想像もつきません。






   

問答河岸跡
 昔はこの道路の先は海で、漁師などが使う小さな港がありました。時の徳川第三代将軍、家光がこの地の東海寺を訪れたとき、沢庵和尚が門前まで迎え問答をしたといわれています。
 将軍家光「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」
 和尚沢庵「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」






   

土蔵相模跡
 江戸時代から品川遊郭があり、その近くに大旅籠屋「相模屋」がありました。建物の外観が土蔵に見えたため「土蔵相模」といわれていました。
 1862(文久2)年、品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この相模屋で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。
 幕末の歴史の舞台となった旅籠屋です。後に「さがみホテル」となりましたが、現在ではマンションとなり一階にはコンビニエンスストアが入っています。                                    20060404*








旧東海道を行く
品川宿は,旧東海道の整備事業が進められ、休憩処が随所に設けられています






鯨塚 (利田(かがた)神社)
 江戸時代、品川沖に迷い込んだ鯨が打ち上げられました。その鯨の骨を埋めた場所(塚)です。当時はかわら版などにより江戸中の評判になりました。この鯨を浜離宮まで引っ張って徳川第十一代将軍、家斉にも見せたといわれています。




   

左:「鯨塚の由来」の碑  右:鯨塚








  利田神社近くにある灯台のモニュメント。
 近くには品川浦の屋形船の発着場があります。








一里標
 2000(平成12)年、品川区立品海公園改修により旧東海道に面した一角に街道松の植樹、里標柱の設置するなどして整備されました。   20060404








法禅寺
 宗派は浄土宗で、開創は1384年といわれています。芝増上寺の末寺になっています。門前横には「品川小学校発祥之地」と記した碑があります。








一心寺
 安政2年(西暦1854年)日本開国之機運高まり国運の境目に直面しとき時、大老職井伊直弼公が縁起に依り江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国茶約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表に依って建立されたと伝えられております。
(以下略 「一心寺之由来」より)
 成田山の分身といわれる不動明王を祀り、昔から「品川のお不動さま」として親しまれ、延命・商売の守り神と崇められています。
 「東海七福神」の寿老人に指定されています。           20060404*








虚空蔵尊(養願寺)
 1299年の開創といわれています。
 「品川の虚空蔵さま」と親しまれる虚空蔵菩薩があります。4月と11月の7日が例大祭です。毎月7のつく日には縁日で賑わいをみせます。
 「東海七福神」の布袋さまに指定されています。






品川宿本陣跡(品川区立聖蹟公園)
 東海道は日本橋から始まりますが、品川は多くの旅人にとって江戸の出発地でした。江戸の玄関口として旅人の見送り・出迎えの人々が多く、繁盛したようです。今でいう歓楽街の上得意客は芝の僧侶、薩摩屋敷の武士たちだったようです。そして賑わいを影で支えたのが娼婦、飯盛り女たちでした。
 品川宿は当初北品川・南品川の二宿構成でした。のちに善福寺、法善寺の門前町、人口増による新しい町を併合した形で「歩行新宿」が、徳川幕府から許されました。これにより品川宿は三宿構成になりました。
 また桜の御殿山、紅葉の海晏寺、潮干狩りの袖ヶ浦が周辺にあり、江戸の行楽地としても大いに賑わったようです。
 この品川宿の本陣跡は、現在は「品川区立聖蹟公園」として区民の憩いの場となっています。本陣屋敷を明治天皇が休憩の行在所として使用したことから公園名に「聖蹟」の文字が付けられています。


   

街道松



  

   左:公園の入り口   右:入った奥が本陣跡





敷石に描かれた当時の本陣の様子





本陣の建物があったところ






荏原神社
 709(和銅2)年が起こりといわれ、古くから親しまれている古社です。 昔は南品川宿の鎮守として目黒川の南側にありましたが、流域が変更され、現在は目黒川の北側にあります。
 言い伝えによりますと源頼義・義家親子が奥州下向途中に戦勝祈願に神馬を奉納したといわれ、鎮守として信仰を集めました。毎年六月に行われる例大祭は、「河童まつり」として知られています。
 「東海七福神」の恵比寿さまに指定されています。


  

左の碑には「官幣小社大國魂神社宮司・・・・」とあります





社殿





日本一美しい狛犬といわれています







品川橋
 江戸時代の東海道にあった河川に橋を架けることは今日的な言葉でいえば大型公共土木工事といえるでしょう。東海道五十三次においては、江戸の日本橋の次の本格的な橋が品川橋でした。現在の橋の上は東屋が設けられたミニ庭園なっていて休憩できるようになっています。 全国的に見てもこのような設計は珍しいと思います。
 江戸時代には別名「境橋」とも呼ばれていました。
 なお、八ツ山橋は明治時代、鉄道敷設に伴い架けられた鉄道跨線橋で、河川に架けられる橋とは異なります。






  

左:下流方向  右:上流方向(右の木立は荏原神社)
川面の白い筋は桜の花弁





宿場時代を思わせる「親柱」とミニ庭園の東屋






→ → 

整備された品川区内の旧東海道を行く






長徳寺
 宗派は時宗です。1413年の開創といわれています。境内は時宗特有の静寂さを感じます。本堂南に接して閻魔堂があります。堂内には鎌倉時代作といわれる閻魔王座像が祀られています。昔から地元では「南品川の閻魔さま」と呼ばれ親しまれています。 


  





静寂さが漂う境内








天妙国(てんみょうこく)
 1285年に、日蓮の直弟子の天目上人の創建といわれます。 1590年に徳川家康が江戸入りをする際に宿泊しました。これが縁で徳川家とのつながりができました。徳川第3代将軍、家光は五重塔、書院、総門などを造営寄進しています。また、多くの文化財が多く残されています。 
 歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」に登場する、「斬られ与三郎」と「お富」、剣客伊藤一刀斎、お祭佐七などの墓があります。






  

幕府御用宿 釜 屋 跡
 南品川宿にあった建場茶屋「釜屋」のあったところです。東海道の旅人は、ここで休息や見送り・出迎えの人たちと食事をしたり宴会を開いたりしました。とても繁盛したようです。のちには本陣のような構えの建物に改築しました。それで巷間では「本陣」と呼ばれたりしました。
 1867(慶応3)年10月に新撰組の副長である土方歳三が隊志を連れて休息に来たことが記録に残っています。また、1868(慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組隊志たちは、同月15日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。                           20060404*






品川(ほんせん)
 宗派は真言宗醍醐派で、別格本山となっています。806-10(大同年間)の開創といわれています。
 1652(承応元)年に徳川第4代将軍、家綱からこの地を拝領して堂宇を建立しました。むが寺を再興しました。この寺は弘法太子が水月観音を安置した観音堂が始まりといわれています。
 1708年に造立された地蔵菩薩座像は江戸六地蔵の第1番になっています。
 なお、この寺の梵鐘は1867(慶応3)年のパリ万国博覧会に出品され、その帰途に行方不明になり、大騒ぎになりました。長い間不明でしたが、ジュネーブのアリアナ博物館にあることが判り、1930(昭和5)年に返還されました。







山門



  

梵鐘





木立に囲まれ、桜が満開の境内





満開の桜を背にした地蔵菩薩座像(江戸六地蔵第一番)






海雲寺
 宗派は曹洞宗です。1251(建長3)年僧不山により開基しました。当初は臨済宗でしたが1596(慶長元)年海晏寺五世を開山として曹洞宗に改め、1661(寛文元)年海雲寺となりました。


  





本堂に似合う枝垂桜



   






平蔵地蔵
 江戸末期の頃、鈴ヶ森処刑場で番人をしていた乞食の中に正直な乞食がいて大金をひろい、落とし主を探してとどけた。その為に仲間の乞食から、山分けすれば乞食も廃業出来たのにと、小屋を追い出されて凍死した。これを聞いた藩主が手厚く葬り、地蔵尊を立て供養した。その地蔵尊が当寺境内入口に立っている。「ぼろは着てても心は錦」お参りの人がたえない。                         (海雲寺略縁起より)








前方の鮫州商店街を通り抜ける











鮫州八幡(さめすはちまん)神社
 御林町の鎮守で御林八幡とも呼ばれていました。1856年に地元の漁師が寄進した石灯籠があります。また、境内に入って社殿左手には立派な富士塚があります。





  

富士塚






  

坂本龍馬にちなんだ幟や昔の佇まいを残す建物も・・・






涙橋(浜川橋)
 立会川に架かる橋です。
 1651(慶安4)年、品川宿内にお仕置き場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。江戸の各地から罪人が鈴ケ森刑場へ裸馬に乗せられ、護送されてきました。密かに訪れる家族親類縁者と罪人が、言葉を交わすこともなく涙を流して永遠の別れをしたといわれています。いつしか「涙橋」といわれるようになりました。





  

左:下流方向  右:上流方向



行き交う人が絶えない浜川橋






鈴ヶ森刑場遺跡
 1651(慶安4)年に開設された江戸の仕置場(処刑場)です。
 由比正雪の乱に加担した丸橋忠弥が処刑者第一号となり、白井権八、八百屋お七などもこの刑場で処刑されました。現在も火炙台や磔台の礎石、首洗い井戸などが残っています。
 また、隣接して日蓮宗大経寺があり、大きな「髭題目の碑」が目につきます。                                      20060405*




  










旧東海道は第一京浜国道へ出る



この先で脇道に入り、昼食場所へ













前方の高いビルが昼食場所











今回は、和・洋・中のバイキング




  後 半 へ 続 く 



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