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第7回・今回の行程 約10㎞ 万歩計 約21890歩 清浄光寺(通称「遊行寺」~藤沢・高札場~蒔田本陣跡~常光寺(野口 米次郎の墓)~永勝寺(飯盛女の墓)~義経首洗井戸(義経の首を洗い清 めたという)~引地橋~養命寺~おしゃれ地蔵~(昼食、寿司屋で)~大 山道道標~一里塚~二つ家稲荷神社~松並木~海前寺(茅ヶ崎城主の 菩提寺)~松並木~一里塚 米次郎の墓)~永勝寺(飯盛女の墓)~義経首洗井戸(義経の首を洗い清 めたという)~引地橋~養命寺~おしゃれ地蔵~(昼食、寿司屋で) |
この寺の墓地には詩人の野口米次郎の墓碑があります。野口米次郎は彫刻家として国内よりも海外で有名なイサム・ノグチ氏の父です。この墓碑はイサム・ノグチ氏が制作、建立したものです。 山門を入って左手中ほどには樹齢300-400年、樹高約25メートルといわれるカヤの巨木があります。 |
永勝寺は藤沢宿で旅籠屋として商売繁盛した小松屋の菩提寺です。「小松屋源蔵」と刻まれた小松屋の主の大きな墓石と墓地を囲むように、小松屋で働いていた飯売女(飯盛女)の小さな墓碑39基が建立されています。1761(宝暦11)年から1801(享和元)年の50年間に建立されたものです。当時の身分階級の厳しい時代に、このような墓を建立したことは主である源蔵の使用人を大切にした心情の厚さと信念の人物であったであろうと想像できます。 |
永勝寺(飯盛女の墓) 墓地の中に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があります。飯盛女の墓はこの源蔵が建てたものです。三十九基の墓石には四十八体の法名が刻まれていて五体は男です。 飯盛女のいる旅籠は繁盛しました。藤沢宿には旅籠が四十九軒ありこのうち飯盛女をかかえたのは二十七軒ありました。一軒に二人ずつ置かれました。 飯盛女は近くの農村や他国からも両親の借金の代償としてなかば売られて藤沢に来たのです。旅人の世話や食事の給仕だけでなく男たちの相手にもなりました。飯盛女として悲しい一生を終えたのです。 (墓地前の説明板より引用) |
源義経と武蔵坊弁慶は奥州平泉で殺され、その首は源頼朝の元へ届けられました。首実検が済んだあとに無惨に捨てられました。この地の人々に拾われ、この井戸で洗い清められてここに埋葬して供養されたといわれます。 |
ここから四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡もありました。 (説明板より引用) |
源義経は1189(文治5)年、奥州平泉の衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経は自害し壮烈な最期を遂げた。その亡骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また斬首は奥州路を経て、腰越の浦で首実検後に棄てられました。潮に逆流して白旗神社の近くに流れ着き、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと言い伝えられています。境内には弁慶の力石、義経、弁慶にちなんだ藤の木、松の木が植えられています。 源義経没八百十年祭には平泉、藤沢の有志により「亡骸」と「斬首」の霊を合祀するために鎮霊祭を行い、鎮霊碑を建立しました。 |
藤沢市内にある曹洞宗宗賢院の末寺で、1570(元亀元)年の創建といわれます。 本尊の薬師如来座像は国指定の重要文化財となっています。寄木造り玉眼嵌入で鎌倉前期の作で、玉眼入仏像としては関東最古といわれています。国指定重要文化財で本堂裏の奉安殿に安置されています。 |
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