第8回 茅ヶ崎 〜〈平塚宿〉〜 大磯宿
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2006-12-16
第8回 茅ヶ崎 〜(平塚宿)〜 大磯宿

【前半】


 第8回・今回の行程 約11q 万歩計 約22500歩*

茅ヶ崎市役所前〔発〕 〜 茅ヶ崎・南湖の左富士 〜 旧相模川橋脚 〜 馬入橋 〜 お菊塚 〜 江戸城井戸枠 〜 平塚江戸口見附 〜 脇本陣跡 〜 高札場跡 〜 東組問屋場跡 〜 本陣旧跡 〜 西組問屋場跡 〜 平塚の塚(地名の由来になった塚) 〜 お初の墓(歌舞伎「鏡山お初」のモデルとなった) 〜 春日神社(平塚本宿の鎮守社) 〜 上方見附 〜 高来神社 〜 化粧坂 〜 松並木 〜 化粧井戸 〜 大磯駅前交差点〔着〕
《 前 半 》
 茅ヶ崎市役所前〔発〕 〜 茅ヶ崎・南湖の左富士 〜 旧相模川橋脚 〜 馬入橋 〜 【昼食】








前回の終着地からスタート・・・















■円蔵寺



本堂



   

左:三百五高地の戦闘跡の血染めの岩片  右:乃木将軍像と将軍筆の碑









十間坂







■第六天神社
 創建年代は不明ですが、新田義貞が鎌倉攻め(9999(元弘3)年)の際、その兵火の祝融にあったと言い伝えられています。
 神仏混淆の時代には第六天社と呼ばれていて進退壮健・不老長寿などあらゆる喜びを与えてくれる神として崇められていました。近年は生産製造・建設に関する守護神として尊崇されています。   【説明板より引用】







社殿







■八坂神社
 第六天神社社殿西前に祀られていたという八坂神社は平成4年第六天神社幣殿のご造営に際して、相殿として祀られていることが明らかになりました。
 明治中期の茅ヶ崎大火により罹災後の再建難しく、止むなく相殿としてお祀りしたことと思われます。
 この度のご造営を機会に、御神霊の蘇りと御神威の発揚を願い、この地に奉遷されました。
 欅造りの社殿は、第六天様の神殿でしたが、修復し覆殿を掛け八坂神社社殿としたものです。                   【説明板より引用】

   










道沿いで見かけた昔の面影を残す建物









この先が鳥井戸橋







■南湖の左富士の碑



 鳥井戸橋を渡りきった右側に建っています。
 写真の左が江戸方向、右が京方向です。京に向かって歩くとき富士山が左に見えるは、この地と吉原の二カ所です。晴天の日には写真の碑の右に富士山の姿を見ることができるといいます。







■弁慶塚
 武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久9年12月28日その落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えられている。               【説明板より引用】

   

南湖の左富士の碑の先、右に入ったところに建っています







■旧相模川橋脚
 関東大震災のときに水田が隆起し、鎌倉時代に建設された木製の旧橋の橋脚が7本出現しました。橋脚は直径約0.7b、3列に並び、橋の幅は約7.2bくらいで、立派な橋だったと想像できます。保存のために橋脚は樹脂で覆い水田を人工池にして水漬けにしています。
 1198(建久9)、稲毛三郎重成は亡き妻の霊を供養するために橋を架けました。当時の相模川はここを流れていました。源頼朝はこの橋の落成祝いの帰途落馬して、これが原因で死んだといわれます。



小出川堤防脇に建つ標塔









人工池にして保存しています





左は標識柱「茅ヶ崎市」、上部の碑は、漢詩碑「湘江古橋行」









小出川









平塚市に入ります





馬入川(相模川)に架かる馬入橋を渡ります





電車はJR東海道線





馬入橋の上に立つ距離標識









昼食場所に到着。明治天皇馬入御小休所跡





− 後 半 へ −



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