行程 約11キロ 私の万歩計 約12300歩 三枚橋 〜 早雲寺 〜 正眼寺 〜 一里塚跡(江戸から22番目) 〜 鎖曇寺 〜 女転がし坂 〜 箱根石畳入口 〜 畑宿一里塚跡(江戸から23番目) 〜 甘酒茶屋 〜 杉並木 〜 箱根旧街道一里塚跡(江戸から24番目) 〜 箱根関所跡 |
1521(大永元)年、北条早雲が草庵を結んでいたこの地を、早雲死後その遺言に従い、嫡男の北条氏綱が寺に改修したといわれています。以後北条氏当主は、寺領の寄進などをして早雲寺を手厚く保護しました。1542(天文11)年には勅願寺になり、関東屈指の禅刹として隆盛しました。 1590(天正18)年の豊臣軍による小田原征伐では、豊臣秀吉の本陣として使われ、北条氏滅亡のあとは本堂をはじめ諸堂を焼失し、一時廃寺状態になりました。17世住職は北条氏規(北条氏4代目・氏政の弟)など北条氏子孫の協力を仰ぎながら1627(寛永4)年に本堂を再建しました。また1648(慶安元)年には徳川三代将軍・家光から朱印状を得ました。 境内には北条氏5代の墓、 などがあります。 街道から見える立派な山門は、江戸時代初期に早雲寺が再建されたときのものといわれます。山門に掲げられている「金湯山」という扁額は、1643(寛永20)年、朝鮮通信使の写字官として来日した雪峰(金義信)の揮毫によるものです。 |
この地に鎌倉時代中期には「湯本地蔵堂」という堂宇があったことが知られています。この正眼寺には地蔵堂縁の地蔵菩薩立像(1256 康元 元 俗称曽我五郎地蔵)などがあります。地蔵堂は『東海道名所記』に「湯本の地蔵」と記されています。 寛永年間(1624-44)はじめ、江戸の深川にある材木問屋、初代主・上田直次妻しなの尽力により本堂をはじめ諸堂が修復されました。早雲寺住職を招き、再建が実現しました。これを機に正眼寺と称するようになったといわれています。 1868(:慶応4)年、戊辰戦争が全国各地で激しくなりました。箱根湯本の山崎では官軍と旧徳川幕府方の遊撃隊が戦いました。この「山崎の戦い」で敗走する遊撃隊に正眼寺は放火され焼失しました。現在の本堂は、1932(:昭和7)年に湯本湯場にありました今村繁三(今村銀行頭取)の別荘を移築したものです。この建物は明治期の別荘建築を知るうえで貴重なものといわれています。 |
現在は一里塚跡を伝える碑と説明板あるだけで、当時を偲ばせるものは何もありません。往時は参勤交代の大名などや旅人のために「立場茶屋」を置く大きな立場となっていました。この辺りも行き交う人々で賑わったようです。 |
諸大名の動きを警戒する幕府は旅人が歩きやすい道にして改修することはなく、段差のある滑りやすい石畳道で、改修後も悪路との戦いが続きました。 現在残されている箱根旧街道の石畳は、1863(文久3)年、徳川14代将軍家茂が上洛のおりに改修したものです。現在は国の特別史跡に指定されています。 |
1470(:文明2)年の創建で、1630(:寛永7)に現在地に移りました。 この寺は、浄瑠璃や歌舞伎で演じられる夫唱婦随の敵討ち物語、「箱根霊験躄(いざり)」のモデル、飯沼勝五郎、初花の墓があることで知られています。初花は貞女の模範として世に知られ、讃えられました。この近くには初花が打たれたという「初花の滝」があります。 |
なお、箱根越えにはこの他に飛脚が転落遭難したと言い伝えのある「西海子坂」(さいかちさか)、猿でも上がれないという「猿滑坂」(さるすべりさか)などの急坂が続きます。 |
仇討ちに向かう曽我兄弟が、刀の切れ味を試すため、大石を斬りつけたところ見事に二つに割れたという、言い伝えがある場所です。 |
|