第14回・三島宿−沼津宿・2
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2007-12-12
第14回 三島宿 〜 沼津宿

【後 半】



行程 --km  私の万歩計 --,---歩
 〜三嶋大社(源頼朝ゆかりの伊豆の一の宮)〜問屋場跡〜円明寺〜本陣跡〜時の鐘〜伊豆國分寺跡〜千貫樋〜伏見一里塚〜八幡神社(源頼朝と義経の対面石)〜潮音禅寺(曾我兄弟の仇討ち物語に登場する亀鶴姫の碑)〜傍示杭(沼津藩東限)〜平作地蔵〜沼津一里塚
【後 半】
 〜千貫樋〜伏見一里塚〜八幡神社(源頼朝と義経の対面石)〜潮音禅寺(曾我兄弟の仇討ち物語に登場する亀鶴姫の碑)〜傍示杭(沼津藩東限)〜平作地蔵〜沼津一里塚〜






旧道を黙々と歩きます・・・

     


               


                         







■千貫樋
 街道右側の家並みの脇に用水路が走っています。
 小田原城主北条氏康が1555(天文24)年に建設したものです。水量豊富な伊豆小浜池の水を隣国である駿河へかんがい用水として送るための用水路です。当初の木製の樋は1923(大正15)年の関東大震災で崩壊したためコンクリート製にして再建しました。




  













道端に座する見事な常夜灯




















■伏見一里塚
 江戸日本橋から29番目の一里塚です。
 往時は清水の伏見にある一里塚ということで、「伏見一里塚」いっていたようです。道の両側に塚があります。左側の宝地寺のものは「宝地寺一里塚」といい復元したものです。右側の玉井寺のものは「玉井寺一里塚」といい当時からの塚で、保存状況もよく往時の姿を留めています。





玉井寺一里塚





  



宝池寺一里塚             

  

こちらの一里塚は復元されたものです







■長沢八幡神社
 長沢八幡宮境内の左奥まったところに頼朝・義経対面石があります。1180(治承4)年、源頼朝が源氏再興のため兵を挙げました。頼朝は、このことを知って奥州より駆けつけた源義経とこの大小の石に座って対面したと伝えられています。




  











  
対 面 石
 治承四年(1180)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。
 この対面の時、兄弟が腰掛けた二つの石を対面石という。
 またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらに捨てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹をからませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。                (説明板より引用)







  
長澤松並木
  長沢八幡神社から更に歩進めると松並木に出会います。このような風景を見ると「旧街道を歩いているんだな」と、実感がわいてきます。







■智方神社











後醍醐天皇皇子大塔宮護良親王御陵
 大塔宮護良親王は鎌倉幕府の倒幕の兵を挙げ、一時は征夷大将軍となりましたが、足利尊氏と激しく対立し、最後は囚われの身となり、鎌倉に幽閉されてしまいました。土牢の中に長い間幽閉され続けた後、1334(建武2)年に足利直義に殺されることになりました。



  










  

黄瀬川に架かる橋の下流側に建つ石仏群







  

黄瀬川
三島市と沼津市の市境となっています







■潮音寺
曾我兄弟の仇、工藤祐経が最後の夜に一夜を共に過ごしていた白拍子の亀鶴を祭る所縁の寺です。                  (以下は説明板より引用)  亀鶴之碑、観音堂
弘仁年中弘法大師伊豆修善寺に御修行の砌、この地を通りたもう処感応ありて、聖観音菩薩を刻み、一宇を建立安置したまう。
祈願するもの利益をこうむる事恰も響の音に応ずるが如く有験の霊像なり。
黄瀬川村に小野善司 左エ門政氏なる長者あり一子なきを悲しみ、祈願、満願一子を授く、亀鶴姫と名付く。七才の春両親に死別、十八才の時、源頼朝公富士の牧狩の宴に、再度召されたが応ぜず、この世を憂き事と思い、黄瀬川の水上、百沢の瀧のほとりに立ち、
  み佛の深きめぐみぞ頼みなる、 身は瀧きつ瀬のあわと消ゆとも。
と一首の歌を残して飛泉に身を沈む。
この時建久四年(1193)五月二十七日なり。姫は駿河の三美人と云われ賢女にして、亀鶴草紙等を残す。小野氏の遺財で碑を立て、亀鶴山観音寺を建立。明治十二年廃寺、当山に移転安置、その霊を弔う。観音堂は昭和二十年の戦災で焼失、平成八年八百年忌に再建す。





  

左:「亀鶴観世音菩薩」の碑  右:「亀鶴姫像」の碑







■傍示杭
藩領を示す杭。1778(安永7)年沼津藩初代藩主水野忠友は藩領を示す杭を東境、西境に設けました。この東境の杭は高さ2メートル強の石杭で造られた立派なもので当時の形を残しています。









   

国道1号線を行く



  

「駿府へ15里」の標識



  

再び国道1号線と分かれて旧道を歩く







■平作地蔵
旧道が旧国道1号線と別れ、狩野川の黒瀬橋先の土手下に「平作地蔵」の小さな祠が見えます。
日本三大仇討の一つに数えられ、浄瑠璃「伊賀越道中双六 沼津の段」に登場する「平作」ゆかりの地蔵尊です。通称「もろこし地蔵」とも言われています。いかはせつめいばんよりのいんようです。
日本三大仇討の一 (ひとつ)
平作地蔵尊の由来
 この地蔵尊はいつ頃創建されたか明らかではないが有名な浄瑠璃「伊賀超道中双六」に出てくる沼津の平作のゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
 地蔵尊の立てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ自分は旅人の荷担ぎを業として居りました。そして仇河合又五朗の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に分かれた平作の子)に娘お米の夫渡辺数馬のの為、平作は自害して、その居場所を聞きだす。 
沼津千本の場面
 平作決心して自害し“死にゆく仏の供養として聞かせてくれ”と申します。“仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田で逢うたと人の噂”と浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来平作爺さんの義侠心は後の人々の心を打ち茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。                    (以下省略・説明板より引用)  
  







■沼津一里塚と玉砥石
沼津一里塚
江戸日本橋より30番目の一里塚です。
平作地蔵より100メートルほど先の右側にあります。日枝神社旧参道入口でしたが、今は小公園に整備されています。奥まったところに復元された一里塚があり、2代目の榎が植えられています。狩野川側にも一里塚はあったようですがはっきりはわかりません。今ある一里塚は旧沼津藩の面影を残す数少ない遺跡の一つとなっています。
玉砥石
また道に面して「玉砥石」があります。この石は1200−1300年くらい前に玉などを磨くのに用いていたものといわれています。

沼津一里塚

  







玉砥石








■霊山寺
 曹洞宗永平寺派 霊山寺。通称「れいざんじ」と呼ばれ、親しまれています。昔は真言宗のお寺でしたが、1748(延享5)年に火災に遭って寺記、過去帳など重要な文書を殆ど焼失しました。このため創建の年代などは判っていません。
 1557(弘治3)年に曹洞宗の宗祖道元禅師より、伊豆国北条村の真珠院の住職をしていた機外永宜和尚が当寺に招かれて中興開山となりました。これにより真珠院を本寺とし、真言宗から曹洞宗に改宗しました。

  











  






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